川居くんの思い出

■川居秀幸くんのこと

2007年の夏ライブは我々AROUNDSにとって、ベース&ボーカルの川居秀幸君と一緒に演奏できた最後のライブとなってしまいました。川居君はこのライブの1ヵ月後に海の事故で帰らぬ人となってしまいました。

彼は男の中の男でした。ベーシストとして本当に頼りになるだけでなく、暖かく、みんなを元気にさせる人でした。常に冷静で怒った顔を見たことがありません。それでいて、決断力と実行力に富んだ男でした。おまけに仕事が早く、どれだけバンド活動の準備においても彼に助けられたか分かりません。また、とてもお茶目で人を楽しませることにかけても天下一品でした。

我々アラウンズだけでなく、職場はもちろん、スキー、ダイビングなどの仲間内で兄貴分、弟分として多くの方々に慕われた人です。亡くなって7年経った今も、ライブには昔の彼のサークル仲間が大勢参加してくださいます。いろんな思い出がたくさんあります。そのうちに少しずつ思い出話を書いていきたいと思います。今日はここまで(2015.1.3 ばんます)。

■川居くんのこと Episode1 出会い編

初めて会ったのはたしか、AROUND30sの新宿Carol Houseライブがあった1986年12月20日、もしくは87年夏の夜、新宿歌舞伎町だ思います(その頃のライブ写真を1988年LIVEのページの下の方に掲載しています)。当時の30sは、ベースとドラムがそれぞれ家庭の事情で会社を辞めバンドからも離れることが決まっていました。従って後釜を探さなければならない状況でした。

その頃、多恵ちゃんがアルバイトをしていた藤沢のお店によく来ていたのが川居くんだったのです。話を聞いてみたらベースマンだという。おまけに1987年には後輩のドラマー(北君です)が同じ会社に入社するとのこと。よかったら、僕(川居君)が彼を連れてAROUND30sに参加してもいいよというような話に進みつつあったそうです。

Carol House のLIVE後、近くの居酒屋で多恵ちゃんが僕に彼を紹介してくれました。『初めて会ったその日から愛の花咲くこともある』という有名なフレーズが『パンチでデート』という昔の人気TV番組にありましたが、まさにその通りの初顔合わせになりました。その日の二次会だったか三次会だったか、あるいは別の日だったか、いささか心もとないのですが、新宿のカラオケパブに行きました。たしか”Emily Emily”という名前の新宿3丁目か2丁目の店だったと思います。このときは確か尾本や拓郎もいたような気がするのですが、もう完全に意気投合!テンション上がりまくりで、3人だか4人で肩を組んで、靖国通りの歩道をラインダンスしながら歌いまくりながら新宿駅に駆け込んだ記憶が鮮明に残っています。これで、AROUNDSの土台ができたのです。尾本、拓郎含めていいメンバーが揃ったという喜びも加わり、とにかく嬉しかったのです。

多恵ちゃんには感謝、本当に感謝です。いいやつを連れてきてくれた。

本日はここまで(2015.1.18 ばんます)。

■川居くんのこと Episode2 燻製編

2000年の合宿のときです。彼が最近始めたといって燻製の道具を泉郷の合宿所に持ち込んできました。なにやら頼りなげなボックスで、これで本当にできるんかいな?と僕らは不安な目で見ていたのですが、彼は「経験者にまかせなさい!」と豪語するのでお任せしました。桜のチップを敷き詰めてスモーキングが始まりました。彼はとにかく手先が器用でアウトドア大好き人間ですので、八ヶ岳に住むや否や、色々と趣味の世界を広げたようです。

燻製のネタは肉だったか魚だったか今となってはおぼろげなのですが、鮮明に覚えているものがあります。それはウィンナーソーセージとチーズです。それらを載せました。5分、10分、時間が経過します。15分以上経過したと思います。川居くんは、「まだまだ、蓋を開けちゃいけない。男はじっと我慢だ!」などと自信たっぷり。不安から蓋を開けようとする我々を諭していました。彼が「そろそろいいかな」と宣言し、蓋を開けました。ジャーン!黒こげ、真っ黒こげです。そのときの彼の苦笑いというか引きつった泣きそうな顔を見て、バンマスはやさしく、「こういうのがうまいんだ。俺に食わせろ。ちいとはこげめがうまいんだ」とフォローしつつ挑戦しました。かぶりつきました。そのときの食感は今も忘れません「ジャリッ!!」です。時すでに遅し。私の口はもろに炭をかじっていました。彼もドジですが、かぶりつく僕もドジです。思わず吐き出すも、使命感に燃える僕と、責任感に燃える川居くんは、ほとんど炭化したソーセージを7割くらい削って、かろうじて食える部分を必死で食べたのです。苦く切ない思い出でした。

そのとき、この合宿に同行してくださっていたカメラマンのKさんは近くの富士見町に10年以上前から別荘を持っていましたので、燻製も経験豊富だったのです。彼はわかっていました。しかし優しいKさんは川居のチャレンジ精神を尊重して敢えて指導をしなかったのです。黒こげソーセージを見たKさんの破顔一笑も忘れられない思い出です。 (2015.2.3)

■川居くんのこと Episode3 傷だらけのローラ変

彼のカラオケには重要な持ち歌が3つあります。ひとつはアリスの大ヒット曲「チャンピオン」。エアギターを弾きながらの大熱唱。いつも傍には子分の北君が。この曲の写真と歌声は1990年LIVEのページに入っていますので、探してみてください。二つ目は、河島英五の「酒と泪と男と女」。この曲にまつわるエピソードは1項設ける必要のある抱腹絶倒シリーズで落ちがいくつも出てきますので、次回に譲るとして、ここでは西城英樹の「傷だらけのローラ」をご紹介します。

この3曲の中では最もアクション豊富で、かつ歌の抑揚の大げささと、ハチャメチャなまでのサービス精神。これを真顔でやりぬくプロのエンターテイナーぶり。まるで平成の植木等と言ってもよいのではないでしょうか?聴く者、見る者を圧倒するパフォーマンスにあっけに取られ、大笑いし、ついにはとりこになってしまう媚薬性があります。傷だらけのローラ。どうぞお聴きください。なお、川居の歌は前半です。後半のカラオケは色々な仲間の歌声です。 (2015.2.10)

■川居くんのこと Episode4 超コンパクトな進行譜

「進行譜」という言葉が正しい用語なのかどうか分かりませんが、AROUNDS内では標準語です。何かと言いますと、バンドで演奏する曲の「コード」を小節単位で記載したもので、イントロ、Aメロ、Bメロ、間奏、リピート、ブレイク、リフレインなどの構成が分かるようにコンパクトにまとめたものです。それを作る能力とスピードが抜群に優れていたのが川居くんでした。エンジニアらしい緻密さ、丁寧さで作られています。それも1枚に何曲も詰め込むのです。従ってひとつのライブで演奏する曲が5枚程度にまとまります。数十枚から百枚近くもの譜面を使うことになると、どこにその曲があるか探すのに時間もかかり、練習の能率も上がりません。このようにコンパクトだと非常に効率的です。

この川居特製の進行譜はとても重宝しました。バンマスのようにサイドギターでコーラス主体だと、ほとんど歌詞も要らないので、これで済んでしまうのですね。つまり僕は宿題をしていかなくとも、準備のよいクラスメイトにいつも助けてもらって楽してたわけです。それにしても、忙しい仕事の合間を縫って制作したんでしょうね。よくマメに準備したものです。ありがたやありがたや。今でも昔の曲はこれで済ましてしまうほどに使い込んでいます。

ただ彼の名誉のために言っておきますが、彼はこれだけで済ましているわけではありません。新曲は当然耳コピしたり、バンドスコアという完全版で練習したり、非常に簡便なTAB譜を自分で起こしたりして練習していました。従ってそういう準備を終えた後の本番では、この進行譜があればオッケーということになるわけです。

●1994年の進行譜(現物はA4サイズ)

マメです。手書きです。いまのワタクシの老眼ではとてもステージ上で読めませんが、若い頃はこんな小さな文字を薄暗いステージ上で読めたんですね。すごいもんです。

●2004年の進行譜(現物はA4サイズ)

20世紀の終わり頃!から川居進行譜はPCで作られるようになりました。多分、過去にやった曲の進行譜をコピペし、新しい曲だけ新作。曲順に合わせて並べ替えをするだけでできてしまう。ますます効率的。こういうところを見ると、やはり川居くんはエンジニアだなあと思います。それも最適な方法を開発し、用いて、実行する。大したもんだ、と紙1枚を見ても思います。 20150224

●川居くんのこと Episode5 大きな背中の話

彼の背中は大きいのです。アイデンティティという言葉がありますが、この言葉は組織や企業、お店、ブランドなどの特性・コンセプトなどを現す際によく使われますね。彼の場合には背中にアイデンティティがあるわけです。もっと簡単に言うと背中が大きいので後ろから見たらすぐに彼だとわかるわけです。

そんな彼の背中をよく見たのが、PARTY!のページでも紹介している赤坂のお店シェラでした。彼が開発担当をしていた電子ペーパーに関する学会や、彼が参加していた社外の研究チームの会議などで東京に来たときには、帰りに必ずシェラに寄っていました。中央線のあずさ2号?松本行に間に合うように帰らなければならないので、だいたい6時台にはシェラのカウンターに座っていました。シェラのドアを開けると、そう川居くんの大きな背中が見えるわけです。一目で分かる背中なのです。おお、来たか来たかとAROUNDSメンバー喜んで話に花が咲くというわけです。

まあ、これだけの話ですので面白くもなんともないのですが、シェラのカウンターと彼の背中のバランスがとてもさまになっていたのです。いつもははしゃいで盛り上げる川居が、ここではダンディーな大人の風格がありましたね。

下記のURLは、彼が出願し登録された特許が掲載されているサイトです。これ以外にも様々な文献に彼の名前が出てきます。お葬式では、英国・米国の高名な教授の方々からの心のこもった弔電が届いていました。ベーシスト川居はすぐれた技術者だったのです。そんな彼の忙しい研究活動の合間に見せるほっとくつろいだ姿が赤坂の彼の背中に表れていたのかもしれません。(20150307)

http://pat.reserge.net/PatentDocument.php?pn=2002196373&dbid=JPP

■泉郷と川居宅の関係

彼がアンドレアさんと結婚した後、転職先の勤務地の関係から、1999年か2000年頃、二人は八ヶ岳山麓の富士見高原にあるログハウスに転居しました。その頃の話です(当時の写真をこのサイトの1コーナー「Fujimi & Yatsugatakeに掲載しています)。当時のAROUNDSの合宿は泉郷という、八ヶ岳山麓にある大別荘地にある貸スタジオを使っていました。その当時の合宿写真も「合宿の思い出」ページのあちこちに出てきます。泉郷は八ヶ岳南麓の山梨県側ですが、川居君・アンちゃんの家はそこから15kmほどの長野県側にありました。泉郷はロケーション・環境的にも音楽的にもすばらしい空間であっただけでなく、川居くんのいわばホームグラウンドだったのです。

自宅ログハウス前にはブルーベリーの垣根があります。たくさんなります。おいしいです。川居君がつまんでいる(上)のも、そのブルーベリー。僕のエネルギーの元!とでも語っているようです。

自宅前バルコニーでよくBBQ宴会をやりましたね。

■この写真は北八ヶ岳の横岳の下りのリフトで。

■自宅すぐ近くにある有名レストラン「カントリーキッチン」

次回予告・・・山歩きの話。ボストンマラソンの話。河島英吾(英五)の話。難しい話をシンプルにの話。ヒマを見て少しずつ、思い出しだし、書いていきます。増えてきたらページを分離します。